小学生の時、北海道の夕張市で父につれられて見に行ったと思う(あまり自信はないが)。3年生~5年生までは、炭坑の町、今はメロンとスキーの町夕張市清水沢に住んでいた。
そう、今は破綻し、見せしめのようにマスコミで話題になっている市だ。
はたして市の政治が悪かったのか、私は疑問に思っている。詳しく分析してみたわけではないが、ただそう思う。あれだけすごかった北炭や三菱の炭鉱が廃止になったのだから、その後つい最近までよくもったものだと、思う。
私の子どもの頃の美しい思い出は、そこに凝縮しているのだから、ひいき目にもそう思う。夕張、清水沢、なんと美しい地名だろう。
近所に映画館があり、そこの子が同級生だったので、遊びに行けばいつでも裏口から館内に入れた(家と映画館がつながっていた)のだが、表口から父につれていってもらうことはまた格別だった。
南方の島での戦闘シーンのすさまじさは、今でも記憶にある。山の中腹の洞穴での激しい戦いが悲惨だった。たった10年前のことだったのに、戦後生まれの私にとっては大昔のことのように思えた。しかし、学徒出陣で南方に行った父にとっては、ついこのあいだの悪夢であったに違いない。「お父さんも、こんなすごい戦争したの」と尋ねてみたら、父は「他の部隊は大変だったが、僕のところは敵に一度もあわなかった」と答えた。
生き残った日本兵の一人が、現地のお坊さんに助けられ、自分も僧侶になってビルマに残り、戦争で死んでいったたくさんの人たちのために働くことを決意する。他の兵士達は捕虜になり、収容所でのんびりと帰国を待っている。ある日彼等は、死んだと思っていた水島一等兵(?今、思い出した)らしき僧侶が(拾った物だったか、手作りのものだったか)素朴な竪琴で奏でる「埴生の宿」を聞く。それは、戦闘の合間の夜のひとときに、水島の指導で皆で合唱していた旋律だったのだ。皆は、彼の名を呼び、一緒に帰国しようとうながす。しかし、彼は身をあかすことなく静かに立ち去る。
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